シート作り一筋。

VOL.251 / 252

高瀬 嶺生 TAKASE Mineo

1951年11月5日、愛知県出身
今年で創業38周年を迎えるスポーツシートメーカー「ブリッド(愛知県東海市)」の代表取締役社長。安全性の確保はもちろん、ドライバーにとってベストなフィット感とドライビングポジションを追求したシート作りに取り組んできた。国内モータースポーツで装着されるスポーツシートでシェアトップを誇る。2019年10月よりNAPAC(日本自動車用品・部品アフターマーケット振興会)会長に就任。
https://bride-jp.com

D1をはじめ、国内モータースポーツでも高い認知度、シェアを誇る「ブリッド」
シートブランドとしては後発ではあるが高瀬嶺生社長のものづくりへのこだわりが愛用者を増やしていったのは間違いない
不器用なまでにシート作り一筋を貫いた高瀬さんが歩んできた道、進む道を聞く

シート作り一筋。---[その1]

 昭和43年に高校に入った当時はモータリゼーションが盛んになっていて、車関係の仕事に就くことを目指す人が多かった時代です。私自身も愛知県に1〜2校しかない公立の中で、唯一自動車課がある工業高校に進学しました。名古屋にあったそこは40人1クラスしかなくて、倍率はかなり高かったですね。
 卒業して整備士の免許を取得し、トヨタ系のディーラーに入って、まずは整備士になりました。高校生の頃からオートバイに乗っていて、それをいじるのが好きでした。車にしても、同じようにメカニズムに対して興味を持っていたんです。

シートのFIA公認を日本で初めて取得したのもブリッド。
現在のシートバリエーションは338種類。専用シートレールは800車種以上を誇る。

不器用な性格だから

 ディーラーで一通りの職種を経験した後に私は会社を辞めて、車の部品を扱う問屋に入りました。その頃から自分で何かを始めたいなという気持ちを抱いていたので、その仕事を続けながら勉強をして、30歳の時に今の会社を立ち上げたんです。
 問屋ではチューニング系のパーツを扱っていたので、その関係で何かできないかと探していたところ、たまたま巡り会った下請けさんが自動車の座席であれば作ってあげるよと言ってくれ、車のシートを扱うことに決めたのです。自分としては、何でも良かったんですが、強く心に決めていたのはマフラーやエアロだったり、いろいろあるパーツの中でひとつのものを掘り下げたい、ということです。不器用な性格なので多角経営、水平展開をやるのが苦手ですし、何かひとつのものを掘り下げることが好きなんです。だから38年経った今でも、シートとシートレールしかやっていないんですけどね(笑)。
 独立した直後は厳しかったですよ。1980年代初頭はチューニングカーの黎明期。それだけでご飯を食べられないので、他のこともやりながら粛々とシートを作っていました。そして1989年、平成元年になったタイミングで法人設立をしました。それまで個人創業で、社員2〜3人という数で8年間やってきて、そこから本格的にやっていこうと覚悟を決めたんです。

土屋圭市さん効果

法人化して力を入れたのはブランディングです。ラリーやジムカーナが盛んな頃で、隆盛していた全日本ジムカーナ、全日本ダートトライアルでは1大会に200台が集まっていました。我々が着目したのはそういったB級ライセンスで競技をしている人たちで、まずはその人たちに認めてもらうことが大切だと考えたのです。
 ブランディングにおいては、土屋圭市さんの存在がとても大きかったです。平成に入る少し前、昭和62〜63年頃からミラージュカップというレースでお付き合いをスタートしていました。その後、土屋さんがドリフトで有名になり、彼が乗る車のシートはすべてブリッドというイメージが定着しました。エキサイティングカーショー、オートサロンといったイベントはもちろん、カーボーイ、オプション、専門ドリフト雑誌等での露出もすべてです。「土屋さん=ブリッド」というイメージを作り上げていったんです。
 それで峠を走る人、ドリフトをやる人はブリッドを選ぶ流れを作ることができました。平成3年頃のシェアでは、全日本ジムカーナでの装着率でトップ。また土屋さん効果で「ブリッド=ドリフトのブランド」というイメージも定着でき、徐々に盛り上がっていったD1でのシェアも90%以上を取ることができました。

選手に寄り添うブランド

 シートブランドの中では後発だった我々が38年も続けて来られたのは、やはりひとつのことをとことん掘り下げたことに尽きると思います。平成元年から30年間、一生懸命に競技に取り組む選手たちと一緒になってシート開発を進め、〝下から攻めてきたブランド〟なんです。どんなカテゴリーであってもドライバーに合わせてシートをイチから作る労力を惜しみませんでした。日本人体型に合うことはもちろん、女性専用、狭い車内専用に作ることもありました。
 共通のシェルを使って、後付けのウレタンでごまかすのが一般的なのですが、うちはシェル自体をドライバーに合うものに作り直しているんです。競技で勝つためのシート、ドライバーを守るシート、車検が通るシート、それらすべてを満たす──。自慢したいのは、レースシーンで使っているシートも市販品であることです。決してレースのためだけに作っていません。
 ただ、それはユーザーにとっては良いことですが、我々にとっては非効率なことです。それほど定価設定が高いわけではないので、商売的にも儲かりません(笑)。それでも続けるのは、個々の人と長く付き合っていきたい思いがあるからです。ひとりの人が長く使うのはもちろん、その人の子供にもブリッドの良さが伝わって使ってもらえるような姿を思い描いています。珍しい会社かもしれないですね。手間がかかること、面倒臭いことばかりずっとやり続けているわけですから。
 もちろん、それを実現するためには機能的に優れていることは欠かせません。ハードとソフト両面が良くなければいけないんです。そういう意味では、最近出したゼロシリーズのシートの評判はかなり良くて満足しています。使用したドライバーは「剛性感が既製品と違う」と言います。剛性感を出すのがまた難しくて、粘りだったり、硬さ、強度など、さまざまなものが関係しています。単に強度だけを上げればいいというものではないんです。そこはずっとこだわってきましたし、これからもこだわっていきたい点ですね。

 

シート作り一筋。---[その2]

今や、国内産スポーツシートの代名詞とも言える「ブリッド」
高瀬嶺生社長が成熟へと導いたメーカーとしての30年の歩みは輝かしい歴史として刻まれている
しかし、高瀬社長はこう話す
次の30年はそれを壊す時代だ、と

 ブリッドシートの強みは、日本人体型に合わせて製作していることに尽きます。イタリアブランドがなぜ日本のシェアを独占できないか? イタリアだけで考えても北部と南部では体型が違ってきますし、それを日本人にも合うようにと考えると、どうしてもアバウトになってしまうわけです。
我々は日本人向けシートに絞って、メイド・イン・ジャパンにこだわってきました。傷や波打ちがないFRPの出来上がりのきれいさ、縫製ラインにもシワができないよう尽力する。輸入品だとアバウトになる品質においても、徹底的に管理してきたのです。単なる工業製品ではなく、職人が愛を注いできた温もりのある手作り感が一番の違いだと思っています。よく身体になじむので、長く使いたいと思ってもらえる──それこそが、寝ても覚めてもシート一筋にやってきた我々にしかできない強みだと考えています。

突き抜けられるか

 一方で、積み上げてきたものにしがみつく生き方ではいけないとも思っています。1989年に法人設立して今年で30年になります。その30年間積み上げてきたものを継承しつつ、ぶち壊すことも大切だと思っています。世の中を30年周期で考えると、1989年の平成元年の頃はパソコンのOS「ウィンドウズ」が一般化し始め、自動車業界ではトヨタ自動車のプレミアムブランドであるレクサスが登場した年。そこから30年経った2019年は元号が令和になり、次世代の30年でやらなければいけないのは、これまでとは違う「新しい景色」を作っていくことです。ブリッドとしては成功と失敗を繰り返して今は成熟段階。そんな成熟したところで一生懸命に頑張っても先がない。今こそ、突き抜けたことを考えて実行していかないと生き残っていけないと私は思うんです。
 商売は常に競争の世界にさらされていて、その中でどう差別化して生き残っていくかを誰もが考えています。そこで突き抜けた存在になるためには、世界に出て行くか、あるいは人と違うことをするかの選択肢しかありません。私自身は後者で、常識に囚われず非常識な物の考え方をして今までになかった道を切り拓いていくタイプです。経験的に言うと、固定概念の中で議論をしていても何も変わらないというのが私が出した結論なのです。答えを先に出して、それに合わせて積み重ねをしていく足し算のやり方では、革新的な物はもう生まれないのです。

頂点のスーパーGTだけに取り組むのではなく、ブリッドは86/BRZのワンメイクレースからスーパー耐久シリーズまでを支える国産スポーツシートメーカーだ。エンケイもスポンサードするスーパー耐久シリーズST-5クラスの「チームBRIDE」は今季シリーズチャンピオンを見事獲得した。

「いつかは」を大切に

 革新的なことをやる上で、私が大切にしているのはコミュニケーションです。10月から会長に就任させていただいた日本自動車用品・部品アフターマーケット振興会(NAPAC)でも、それは同じです。私が常にやってきたことは会員さん同士の輪を大切にして、総合的に何か形にしていくことです。理事会で集まった際も、もっと仲良く会話しましょう、というところから始まって皆でできることは何か、目指せる将来はどんな姿なのかを考えていくというものです。
 現代は、すぐに価格競争に走ってしまう傾向にあります。その流れにある意味で逆らって、コモディティを作るのではなく、もっと個性を出してプレミアムな商品を生み出して、少しでも高く売っていきましょうという考えをNAPACで共有していければと思います。マーケットが小さくなって生き残ろうとして自分たちのことだけを考えるのではなく、皆で生き残る術を考えていきたいんです。
 そういう意味で、尊敬する前会長の舘(信秀)さんは、今でも変わらず大きな夢を持たれている方で、皆が良くなるように常に考えておられました。現代は、そういうものこそ大切だと思います。夢を追いかける一生懸命な姿です。スポーツ観戦で心を動かされるのは、諦めずにどれだけチャレンジをし続けるかという部分。いつかは世界で一番になってやるぞという気持ちを持てるかですね。そこに向けて今も、これからも向かっていく意味を含む、この「いつかは」という言葉が私は大切だと思います。私自身も「いつかは」という夢を常に胸に抱きながら、これからもブリッドを、NAPACを牽引していければいいなと考えています。

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